広告が広告として認識されたのは、それこそまだ数百年かもしれません。しかし考えてみれば、広く告げるという行為を大きく捉えると古代から植物、虫、動物、それに人間が縄張りとして目印や臭いをつけたりなど、あらゆる万物が生きる手段として続いているものであると考えます。
ただそうした目印やメッセージとしての広告は、インターネットで世界がつながってから、早くも絶対量を超えたのではないかと最近思うようになりました。

見せかけの終わりと広告の未来

そう思うきっかけは、昨年のステルスマーケティングと今年の食品偽装の問題。

ソーシャルメディアの台頭で、だれでも自分発信できる時代になり、ステルスマーケティングなる言葉も生まれ、文字通りなにがセールス広告か見分けがつかない。また食品偽装に関しては以前から基準が曖昧な点もあり、なぜ今?なぜこれほどまでにこの問題が取り上げられるのか?疑問に思っていました。二つに共通しているのは、見せかけ。ネットやあらゆる媒体で広告が溢れ絶対量を超え、これまで受ける側だった人々がSNSで配信する側に立ち、作り手が他者の作品の意図を探るように、そういう厳しい目線で広告に向き合う時代に入った。安い見せかけは通用しない時代になり、見せかけではない本物が伝わる時代に移行していく。量より質、それも深さのある質が求められていくのではないでしょうか。
そう考えていくと、現在進行形で質の深さを伝える広告として、ソーシャルメディアは一番大きな広告媒体になるだろうと考えます。来年はウェアラブルデバイス元年になり、AR広告などの問題も起き、広告アレルギーはますます敏感になる。広告は死にませんが、時代が進む程広告が自ら首を絞めている。そう遠くない未来、全ての広告は全世界共通のマークが入り、ウェアラブルデバイスで、見たくない広告は非表示にできるかもしれませんね。広告主の本意不本意関わらずに、消費者がみせかけと感じたものは一気に冷めてしまう。当面先はドキュメンタリー性の強いメッセージ広告、ストーリー性の強い広告は見せかけ感が薄いので効果がありそうだと考えます。

【オマケ】テレビのやらせと演出について

これも同じだと思います。従来のテレビメディアに飽きた点と、演出への拒否反応は作り手目線が無意識に働いているからでしょう。もういかに演出にこだわるかよりも、いっそ視聴者も作り手にしていくべきです。具体的に今やっているバラエティーでいうと、逃走中なら逃走者かハンターを動かせる参加型にすべきだし、テラスハウスも出演者それぞれにスマホやウェアラブルもたせてリアルタイムでファンと相談しながら進めていってはどうでしょう?テレビに映る役者(プレイヤー)を視聴者(オーディエンス)が動かす、その二つの間にケータイ大喜利のジュニアさんみたいなウォッチャーをはさめばなお良しです。